人体解剖実習の感想文(&真面目省察)

このブログ記事は医学科生による感想文ですが、個人的な感想なので普遍性はないです。

なので、「解剖実習 感想文」「看護学生 見学レポート」の検索結果で本ブログにたどり着いた方は、参考になるかもしれませんがご注意ください。あくまで、今思っていることの備忘録的なブログ記事です。

「人体解剖」について書きます。苦手な方は読まないでください。


実習中に発生する感情いろいろ

解剖実習で行う行為そのものは人間が最も忌み嫌う行為でもあると私は思っています。視覚、嗅覚への刺激も強いです。初めの数日、何度か悪い夢を見ました。恐らく、人の体を痛めつけているようでストレスになっていたと思います。2週目からは慣れてきましたが、匂いの刺激に対しては、解剖終盤になっても全く動じなくなるほどにはならなかったです(嗅覚が原始的な感覚だからだと推測してます)。実習前にあまり胃をいっぱいにしないようにしていました。私の場合は食欲もなくなりました。

そんな状態だったにもかかわらず、臓器の構造や血管神経の走行は細部まで美しくみえて不思議でした。あらゆる部分が芸術品のようで、毎日感動しっぱなしという感じです。教科書に載っているような複雑な構造のまんま、精緻にできている人体はその隅々まで神秘的とさえ思いました。解剖実習では、そういうふうに、正と負の感情を行ったり来たりという感じでした(ほとんど前者)。


はじめての患者さんとも言うらしい

教科書の図と照らし合わせて部位を同定していく作業では、人体の神秘性に感動すると言っても、単にモノの美しさに感動しているだけだったと思います。でも、身体内部にもやはり個人差というものがあって、そういうのをみつけた時に、自分が世界に唯一無二の人生を生きたご献体を解剖している、ということが再び自覚されました(メスを入れる時が1回目)。特に、死因となったであろう病変を目にする際、激しく心を揺さぶられ、将来の医師の仕事の責任の重さを認識しました。

一義的には、医学科カリキュラムの中で初めて「実際の人体」を医学的に用いるのが解剖実習であるので、その意味で「はじめての患者さん」なんでしょうけれど、人それぞれの個性と人生があること、明らかに病に苦しんだ痕跡があることが厳然としていて、これは対象が教科書から将来向き合う患者に移行した瞬間なのかとも想像しました。そういう意味で解剖実習中は、科学的なモノとしてみる視点と、人格を持った人間としてみる視点で行ったり来たり(ほとんどは前者ですが)していたようでした。

補足:看護の学生が1日程度見学に来たりするけど、大抵前者の視点で終わっていると思います。別に構わないのかとは思いますが、こういうところに差があるのかと後になって気が付きました。


わかったことと、わからないこと

人生を終えた、人間を切っていることを自覚するとき、同時に自分の未熟さを再認識しました。「赤の他人で」かつ「技術的・精神的にも未熟な」医学生に、身体を提供するという行為は、いわゆる「人類愛」(と呼ばれるようなもの)に基づいているのだと想像することはできたけれども、今の私にとってあまりに超越的すぎて、どうしようもなく自分が劣っているように感じました。


実習の最終日、簡素な棺にご遺体(を分解したもの)を入れ、着物を被せ、どなたかの写真(推定するに故人の配偶者の写真でしょうか)と花を手向けて棺を閉じたとき、自分に与えられた責任の重さを感じるとともに、人間とは何か?人生とは何か?幸せとは?人の魂は?といった問いが再び頭を廻ってきて、それでこんな文章を書いているけど、自分はまだその答えに到達していません。