日本のアカデミアの将来に悲観

クマムシ博士の記事「日本のアカデミアの将来はきっと明るい」を読んで、考えたことを書いてみます。


博士の予想では、研究者の過度の競争がが周知となった現在は凡人が研究者を目指すことが少なくなって、その結果、

変人達のみが博士課程に進学する少数精鋭の大学院教育に変わって

優秀な研究者と優秀な大学院生で占められる大学の研究室

ができるそうです。また研究者の激しい競争の結果、

日本の研究者のレベルは優秀な若手研究者を中心として間違いなく上がっているのです

の述べ、記事の最後では、

10年後の日本のアカデミアがどうなるか、楽しみです

と言います。

これは分子生物学を基盤とした生命科学分野には全く当てはまらないと思います。一番の理由は、生命科学、特にウェットの分野ではマンパワー(労働力)が今も必要不可欠だからです。

まず研究室で歓迎されるのは変人よりは従順な労働力です。教授にとっては研究費で労働者(実験補助員)を雇うよりは大学院生を集めるほうが費用対効果が高いから学生を大募集しているんです。博士課程にまでやってくる人たちが、「真に研究が好きな学生・変人」であればいいとクマムシ博士は期待しているようですが、もし学生が自分たちの興味に従って研究する変人であれば、ラボ・教授にとってのメリットも薄くなってしまいます。教授は自分の研究における仮説・アイデアを実証させるために学生の労働力を使うのですから素直な実験員であることが最低限期待されます。もちろん研究も主体的にでできればもっといいのですが、変人らは自分ひとり研究に専念し、教授の仮説・アイデア実証には興味を示さないことが多々あるので歓迎されないし、煙たがられさえします。

大学院生や若手がいわゆる変人で、過去に研究業績のない彼らが「どこか変わったことを主張」していては、労働力の一員として研究グループに参加しにくくなり、共同研究も難しくなるので結果的に業績が貯まりません。また、自分自身の「好き・嫌い」を重視していては、(税金を元にした)研究費は得られません。こうした理由で「変人」は研究を進めるうえで不利であり、現在のアカデミアで生き残りにくいと思われます(クマムシ博士のような独自の才能があればまた別ですが)。

また、クマムシ博士は下記のように述べています。

教官一人当たりが指導する学生数が多くなり、指導効率が悪くなっていました。また、やる気のない学生が研究室に多くいることで、研究室の環境を悪化させるなどの弊害もあったでしょう。

クマムシ博士と私は約10歳の世代差があるからでしょうか、現在の生命科学分野はさらに悲惨だと感じます。多くの教官はもっと指導を放棄しています。旧帝大であっても半分くらいの教官は、学生の代わりに博士課程学生の論文を書いています(特に医学寄りの生物系)。博士課程の学生で英語で論文を書けるレベルに達している人はほとんどいません。もしもこの時、まず論文草案を学生に書かせてそれを教官が訂正していくなら教育的に配慮されていると思えますが、それは教官にとって非常に手間なので初めから教官が丸ごと(学生の学位取得のための)論文を執筆してしまう例が多いです。この場合、博士課程の学生は実験データを産生するテクニシャンと変わりありません。

さて、そうして出版された論文は筆頭著者を若手研究者、責任著者を教授としていることが多いですが、こんな感じで素晴らしい業績を貯めた若手研究者は、どれくらい優秀なのでしょうか。必ずしも本人の能力を反映していないのです。

すごく優秀な人ももちろんいますが、割合はとても少ないと私は思います。


個人的見解まとめ

・変人は生き残るのに不利
← 労働力・チームワークが重視される生命科学では一般に、変人よりも、もっと単純に(誰から見ても)賢くて、技術を持つ人の方が重宝されます。

・現在の若手が過去よりも優秀になっていると限らない
← 見かけ上の業績はあっても、指導教官の成果であることが多い。

ps
世界的な傾向だと思いますが、特に日本の基礎生命科学分野は落ち目だと思います。急激な若手研究者不足を補うために一部で低賃金のテクニシャンの需要が高まるかもしれません。あるいは留学生(主に途上国から)が博士課程およびポスドクで占める割合が増加すると予想します。(彼らは残念ながら日本の閉鎖空間では教授になれません、いわゆる飼い殺しとなるリスクが日本人よりも高いと思われます)

日本の科学研究の低下については、日本の失速について(Nature Index)で記事にしましたが、残念ながら客観的に明確なようです。